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2024年8月5日

79年目の広島原爆投下の日を前にして~8月の広島別院定例法話より

8月となりました。8月6日、79年目の広島原爆の日。広島平和祈念日です。

今回は真宗教団連合の8月の法語カレンダーの言葉をいただいてみましょう。

 

「私たちの人生の争いは いつも善と善の争いだ」

宮城 顗先生の言葉からです。

私たちの「人生の争い」とは何でしょうか?

何を争っているのでしょうか?

争いとは、ケンカ戦争ではないでしょうか?

 

その争いの中に果たして善はあるのでしょうか?

 

そもそも「善」と「争い」との関係は何なのでしょう?

 

「善」と「争い」とは、よくよく考えてみますと関係性のないもの私は思われます。「善」があるのならば、そこに「争い」はおこらないのでは?

 

そもそも「善」という言葉はどういうものでしょうか?

その成り立ちから少し考えてみましょう。

「善」の字は会意文字で、「羊」と「言」「言」で構成されます。

「羊」は、神のいけにえとされた羊の首です。

「言」は、2つの取っ手のある刃物と口の象形文字です。

このことから、羊を神の生贄として、両者が良い結論を求める事を意味し、

そこから「よい」を意味する「善」という漢字が成り立ちました。

 

両者が良い結論を求めるところに「善」があるのですから、むしろ争いは好まないはずです。

では、宮城先生の法語の「善と善の争い」とはどういうことでしょう?

 

最初に出てくる「私たち」という言葉が大きく関わってきます。

いいかえれば、「私たち」が口にしている「善」という意味でしょう。

 

それは「争い」に勝つことによって得られる自分にとって都合の良い結論から生まれる「善」でしょう。

【両者にとって良い結論】を求める「善」には「争い」は起こらないはずです。

しかし争いによって至った、【片方にとって良い結論】は「善」とは言えません。

 

本来の「善」ではないから、むしろ「偽りの善」でしょう。

この「偽りの善」とは何でしょう?それは、自分は正しい、相手が間違っている

自分を正当化し、相手を批難するという見方・考え方からくる「自分だけの善」なのでしょう。

 

今日、この世界上で起こっている「私たちの人生の争い」、

ウクライナとロシアの戦争

パレスチナとイスラエルの紛争

などは、この「自分だけの善」同士のぶつかりによって起こっている事象でしょう。

戦争やケンカといった争いに「善」はあるのでしょうか?

 

すべては、「自分が正しい」「自分は間違っていない」

「自分が、自分が」という【執着】から起こっている「偽りの善」と「偽りの善」の争いではないでしょうか。この執着心とは「心がとらわれる」ことです。

 

今のアメリカ大統領選挙を見ても、当選するために自分を正当化し、相手を国の悪と位置づけ貶めようとする争いに成り下がっています。大統領になりたい、世界のリーダーでありたいという【執着】が候補者の姿なのかもしれません。

そんな執着心のせめぎあいで果たして世界の平和は本当に訪れるのでしょうか?                           

 

ここで、今からするお話を頭の中で思い描いてみてください

南にある村がありました。

そこには優しくて平和を愛する者達が暮らしていました。

子ども、若者、お年寄り、男も女も、

だれもが一生懸命、今を生きようとしていました。

 

その村の北隣には、大きな国がありました。

ある日、その大きな国にひとりの赤ちゃんが生まれました。

とても元気のいい赤ちゃんはすくすくと育ち、ちょっとやんちゃなこどもに育っていきました。

 

そんなこどもの周りにいる大人達が、いつもこう言っていました。

「南の村はこわい村だ」「危ない武器をもっているかもしれない」

「こわい者がたくさんいる」

その話を聞いて大きくなった若者は、大人達の言葉を信じ、南の村は怖いところだと思うようになりました。そして、自分が何とかしなければならないと考えるようになりました。

やがて若者は仲間を連れて南の村へ乗り込んでいきました。

 

平和に暮らしていた南の村、大きな国からやって来た若者達に突然襲われ、村中のみんなが次から次へとやっつけられてしまいました。

子どもも大人もお年寄りも、、、

平和な優しい歌声が響いていた南の村は、静まりかえり、言葉では言い尽くせない怒りと何もできなかったという残念さ、悲しさの空気が漂うだけでした。

しかし、その村の悲しみに光があたることはありませんでした。

 

それどころか、村を襲い、宝物を持ち帰った若者と仲間達は、「英雄だ」「正義の味方だ」といつまでもいつまでも語り継がれていったのでした。

 

 

頭の中で今のお話が思い浮かびましたか?

今のお話を聴いてどう思われましたか?

 

今のお話、題名を当ててみてください。

ヒントは、若者の仲間です。最初の仲間はイヌ、次の仲間はサル、最後の仲間はキジ

分かりましたか?

「桃太郎」のお話です。でも今のお話は、平和な南の村の鬼達から見たお話です。

でも、こんなお話は私達のまわり、世界中のあちこちにたくさんあるのではないでしょうか。自分たちの考えは正しい。自分たちこそ「善」だ。

私たちが住んでいるこの国でも今から79年前に戦争が起こりました。

79年前に聖戦と言われた先の大戦においても、日本という国は同様の

「自分こそ善」を貫き続けていたのではないでしょうか・・・

 

戦争の話だけではありません。人と人との関係の中で自分を正当化し、相手を下に見下し、その結果、いじめをしたり、無視をしたり、私たちの日常生活の中で絶えることなく起こっています。

                        

 

(偽りの)善と(偽りの)善の争いが絶えない私たちは、どのようにすればよいのでしょうか?

人類の長い歴史の中でこれは永遠のテーマなのかもしれません。

 

2021年に1400回忌を迎えられ、親鸞聖人も「倭国の教主」としてあがめられた聖徳太子、その聖徳太子の『十七条憲法』はご存じですか?

 

第一条 和らかなるをもって貴しとし、

第二条 篤く三宝を敬え

第十条 忿(こころのいかり)を絶ち、嗔(おもえりのいかり)を棄てて、人の違うことを怒らざれ、人皆心有り。

    心おのおの執れること有り。~我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ。

とあります。

私が聖者であるわけではない。彼が愚かであるわけではない。お互いに凡夫でしかないのであるという意味です。

「私たち」は、決して完璧な人でも特別な人でも絶対的に正しい人ではありません。

「私たち」は「凡夫」ただの人なのです。

しかし、「私たち」は【執着心】を持つために、自分の思い通りにならなければ、怒り、偏ったものの見方をしてしまう存在なのです。そこが争いの元なのです。

 

聖徳太子は、自分の考えは正しいと思うもの者同士がぶつかって「争い」を起こすと考えられて、この法律を作られました。

「心おのおの執れること有り」とは、まさに自分の考えを「善」とする執着心なのでしょう。           

『歎異抄』の中に親鸞聖人のお言葉が示されています。

「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり~煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と

つまり、

本当の善が何であるかもわからないのが私である。わたしは、私たちは、あらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世の中は、すべては偽りで、真実といえるものはない。ただ念仏だけが真実である。とおっしゃられています。

 

8月の法語「私たちの人生の争いは いつも 善と善との争いだ」は、

凡夫である「私たち」は、人生の中で いつも

「自分が正しい」「自分が善だと」執着して、相手を認められずに争い続け、

阿弥陀仏に出遇えず、私は凡夫であると自覚できずに、火宅無常の世界で迷走している

と読み替えることができるのではないでしょうか。

 

宮城先生は、争いの絶えない「私たち」を凡夫と自覚して、自分の力ではどうすることもできない身と気づかさせてくださる阿弥陀仏のはたらきに出遇い、ただ「南無阿弥陀仏」念仏して阿弥陀仏の願いを聞いてくださいと言われたかったのかもしれません。

そういう意味では、三帰依文にもありますように、私は本当にいつも、仏法聞き難しなのかもしれません。

 

この広島で79回目の夏を迎えるにあたり、改めて「善」とは何か?

自分とはどういう存在なのか、相手があっての世の中で、他者を認めることの大切さについて今一度考え、あるいは世界中の人たちとこのとこを共有することが、この地球上での平和への道の第一歩だと思います。

 

あらためて、ご法話のご縁に遇い、阿弥陀仏の願いを聴聞することの大切さを私自身がいただいた今日という仏縁でした。

                                          南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

2024年8月5日 広島別院定例法話にて   三須 誠

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