「法義相続」に思う(3)
黒田 進
前回、お念仏は「あなたは、そんな生き方をしていていいのですか」というアミダ様の声を聞くことです、ということを申しました。つまり、ナムアミダ仏は、私への呼びかけ、問いかけ、メッセージなのですね。
ところで、昨年(2020年)9月、テニスの全米大会女子シングルスで、大坂なおみ選手が2年ぶり2回目の優勝をはたし、彼女の強さをあらためて私たちに示してくれました。私は、スポーツはからっきし苦手なのですが、見るのは好きで、どんなスポーツでもよくテレビ観戦しております。大坂選手についても、10代で頭角をあらわした頃から、すごい選手があらわれたなと、注目しておりました。
今回の快挙はもちろんすごいことですが、それ以上に世界の注目を集めたのは、彼女のつけていた黒いマスクでした。そこには白い字で、アメリカの人種差別によって殺された黒人の名前が書かれてありました。7枚の黒いマスクを用意し、そこに7人の殺された黒人の名が白く書かれていました。1回戦から決勝まで7枚。しかし彼女は「7枚では足りないことが悲しい」といっています。
この全米大会の前哨戦では、黒人男性が白人警察官に背後から銃撃されたことに抗議して途中棄権し、そのことに対して賛否両論が相次いだようです。その時彼女は自身のツイッターに次のようにメッセージしました。「私はアスリートである前に黒人女性。私のプレーを見てもらうよりももっと注目すべき重要なことがある。警察官の手で黒人が虐殺され続けるのを見ると胸が痛くなる。」(要旨)と。
大坂なおみさんは、ハイチ出身の父と日本人の母の間に大阪で生まれ、3才からアメリカに移住しテニスをはじめたということです。彼女と同じように、日本人と黒人の間に生まれた、アメリカプロバスケットボールで活躍している八村塁選手も、白人警察官による黒人男性暴行死事件に抗議するデモに参加したことが報道されていました。
2人の行動の報道の少し前には、高校野球で大活躍し、現在プロ野球の楽天イーグルスに入っているオコエ瑠偉選手のことが新聞に載っていました。自分のルーツに関連して、これまで周囲から心ない言葉をあびせられ、心に深い傷をおってきたつらい経験を、自身のツイッターに書いて、大きな反響を呼んでいたようです。彼は、ナイジェリア人の父と日本人の母の間に生を受けたとあります。幼い頃からつらい目にあってきたこと、高校野球で活躍していた頃、「甲子園には黒人はでるな」など、何度も汚い言葉で傷つけられてきたことなども告白しているようです。
私は、これらの一連の報道に接し、これまで彼ら彼女らの記録や結果にだけ目が行き、彼ら彼女らが、人知れずかかえてきた苦悩や悲しみ、痛みなどについて、思いをいたすことがなかったなあと、つくづく思いました。
アメリカでは、スポーツ選手やミュージシャンなどが、社会的発言や行動を示すことは、これまでも度々ありました。そのことは多くの共感を呼ぶことがあるのですが、批判の声も多いようです。そういう社会問題や政治的問題への発言や行動には、かなりのリスクも覚悟しなければならないようです。それでも彼らは、発言行動せずにはおれないものがあるのでしょう。日本でもようやくそういう気運が生まれつつあるようです。大坂選手の行動に対して「アスリートは政治に関わるべきではない」という批判がありましたが、その声に対して「これは人権問題だ」と、彼女は真っ向から反論したという記事もありました。
私が今回の報道で、特に心をゆさぶられたことがあります。それは、大坂なおみさんが決勝戦を制し、優勝後のインタビューを受けたときのことです。その場面を、たまたま私はテレビで観ていたのですが、インタビュアーが、「あなたが、あのマスクに込めたメッセージは何ですか」と問いかけたとき、彼女は少し考えてから、次のように答えたのです。
「質問を返すようですが、あなたがあのマスクから受けとめたメッセージは何ですか」と。
実は、私は彼女が質問にどう応答するだろうかと、注目していたのです。そして、彼女が少し間をおいてから「あなた自身は、私のメッセージをどのように受けとめましたか」と答えたことに、私は強烈に心がゆり動かされたのです。そしてしばらくして、これは私への問いかけでもあるなと思ったのです。
新聞のコメントには「人種や性別による差別は米国だけの話ではなく、日本にもあるという意味ではないか。問われるべきは、我々ではないか」とありました。正に問われるべきは、私なのだと思います。私がこの大坂なおみさんのメッセージを、どのように受けとめるのかが問われているのです。私たちが何気なく抱いている様々な先入観や固定観念が、偏見や差別を生み出しているのですが、そのことに中々気づかないのですね。そういう私たちに「あなたはどう思いますか」と問いかけている声が、実は身のまわりにあるのでしょう。声なき声といいますか。そういう声を聞く耳を塞いではならないのでしょう。
長々と述べてきましたが、このような社会問題は、お念仏の教えとは関係ないのではという感想をもつ方もおられるかもしれません。
実は、私たちの宗祖である親鸞聖人という方のご生涯をたどりますと、当時の世の乱れや自然災害に苦しむ民衆との生活の中で、人々の苦しみ悲しみに接し、そこにある様々な問題を仏法に聞いていかれたのです。民衆の一人となってお念仏に真実のアミダ仏の声を聞いていかれたのですね。
お念仏は「あなたは、そんな生き方をしていていいのですか」というアミダ様の声ですと、私たちは教えられてきました。その意味では、日々のくらしの中で、家族との生活、地域の人々との関わりの中で、またテレビや新聞報道などを通して、常に「私においてはどうなのか、どのように考えるのか」とわが身に問いかえす、そのことが念仏生活なのでしょう。
今は亡き安田理深(やすだ りじん)という先生の言葉をご紹介します。
「純粋に考えていく道を念仏というのかもしれんですね。念仏は教理じゃないんだ。予定概念をすてて聞いてゆくということです。聞其名号【もんごみょうごう】(その名号を聞く)というように。誰からも聞く。あらゆるものから聞く。本からも聞くばかりじゃない。人生からも聞く。これほど強い道はないです。」
「これほど強い道」という意味は、これほど確かな道はないということなのだと、私は受け止めています。聞いていく。そして自分の中で考えていく。そういう生活を親鸞聖人は「聞思」(もんし)という言葉で教えてくださいます。
ナンマンダ仏の道、念仏往生の道とは、ひたすら聞いていく道なのですね。このことひとつを、先祖は私たちに相続してくださったのですね。
長浜教区満立寺前住職