我聞如是 わたしは、このようにお聞かせいただきました、、、
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2025年8月6日

ヒロシマ・ナガサキ原爆、終戦80年の節目によせて~8月5日広島別院定例法より

8月となりました。明日は、8月6日、80年目の広島原爆の日

広島平和祈念日です。

《2025年8月5日の広島平和公園の様子》

 

ここ広島別院の定例法話を担当させていただいております、広島鸞声会では今年の2月に沖縄平和学習に行かせていただきました。その時に感じたことですが、

住宅地に隣接する基地から頻繁に爆撃機が離発着を繰り返す沖縄の現実に触れると、八十年経っても戦争は終わっていないというのが正直な気持ちです。

《東本願寺沖縄別院の屋上 森の向こうに普天間基地が位置する。頻繁に軍用機が爆音をあげながら離発着を繰り返す日常》

 

さて、広島別院の定例法話は真宗教団連合の法語カレンダーのその月の法語をいただくことになっております。

では、8月の法語カレンダーの言葉をいただいてみましょう。

 

「仏様にあいたい これにまさる深い願いが 人間にあるでしょうか」

広島県西城町西願寺の前住職で大谷大学学長も勤められた、大谷派講師 寺川 俊昭 先生の『親鸞に出会うことば』という本「ひたむきな聞法」段の中の言葉からです。

『親鸞に出会うことば』は、寺川先生が、親鸞聖人の言葉の中から、その言葉にふれて大きな感動をおぼえ、心に響き続けたことばを31選んでまとめられたものです。

その四つ目に、今回の法語が含まれている「ひたむきな聞法」の段があります。

 

  たとい大千世界に     みてらん火をもすぎゆきて

  仏の御名をきくひとは   ながく不退にかなうなり

 

親鸞聖人の『浄土和讃』からです。

 

その意味は、

  たとえ全世界が火となって燃え上がろうとも、その火をふみこえて、

  一心に教えを聞き、ついに南無阿弥陀仏とおおらかに念仏する身と

  なって、そこに名乗り出る如来に遇った人。その人は必ず仏となって

  いく大道に立ち、ふたたび迷いの人生に返ることはないのです。

 

寺川先生は、親鸞聖人のこの親鸞聖人のお言葉に感銘を受けるにあたり、このような日常を述懐されています。

 

「ひたむきな聞法」

 NHK制作の『シルクロード』をビデオでおりおり見ます。白雪をいただくパミールの嶺々、タクラマカン砂漠のはてしない熱砂。その荘厳な光景は見る私に、その雪嶺をふみこえてインドに教えを求めた中国の求法僧たちと、流砂をこえて中国に教えを伝えたインドの仏者たちの、日に焼けほこりにまみれた姿とが二重写しになって、胸に熱いものを感じさせます。私にふと動いた「仏様にあいたい」という切ない心、それが聞法の志となって私を歩ませるのです。眼で見る、熱砂をこえていく旅はそのまま、私の聞法・求法の歩みであるに違いありません。

    仏様にあいたい。これにまさる深い願いが、人間にあるでしょうか。

この願いが本当に満たされるとき、それは私に「念仏もうさんとおもいたつ心」が湧き起こったときです。おおらかに念仏する私が、そこに誕生しています。そのとき私は、名のり出る仏様の前に身を投げ出して、大地にひれ伏しているのです。

 

親鸞聖人のおことばにある、

「一心に教えを聞き、ついに南無阿弥陀仏とおおらかに念仏する身となって、そこに名乗り出る如来に遇った人。その人は必ず仏となっていく大道に立ち、ふたたび迷いの人生に返ることはないのです。」

と、いただく心は「仏様にあいたい」という聞法・求法の強い気持ちです。

その心を寺川先生は、シルクロードを決死の思いで行き交うインド・中国のお坊さんに見いだされたのです。それは、たとえ全世界が火の海となって燃え上がろうとも、その烈火をふみこえてでも行こうとする強い気持ちなのです。

 

死の道ともいえるシルクロードを自分の足だけを頼りに、行き交いするインド中国の求法僧は、全世界が日の中に沈むほどの苦しみ、悩みを抱えて

あるいは、そこからの解放を求めて「仏様にあいたい」と強く願うのです。

それは、私の力ではどうすることもできないと心から気付かされた者を揺り動かすほどの強い願いなのです。その願いが「仏様にあいたい」仏様の教えを聞きたいという強い志の顕れなのでしょう。

 

この強い願いはともすれば、私・人間の願いであるけれど、それは同時に阿弥陀仏・仏様からの強い願いでもあるのです。私の力ではどうすることもできない、救われたいという私の願いは、私の御名を聞く人を救うぞ、と願われた南無阿弥陀仏に出遇う縁であり、それが南無阿弥陀仏・仏様の強い願いなのです。

 

よく浄土真宗のご法話で、私が願うのではない、仏が願っておられるのだ、とか、南無阿弥陀仏と称えるのは私ではなく、阿弥陀仏から称えさせられているのだとか、聞きます。私自身は混乱する言葉です。私が願っているのではなく、仏が願っている?私が南無阿弥陀仏と称えているのに、阿弥陀仏が称えさせている? ?・はてなの連続です。

 

明治から昭和期にかけて活躍した仏教思想家、大谷派講師の 曽我 量深 という先生は、人間の願いに仏様が応じ、同時に仏様の願いを人間が感じ取ることを「感応」と言われました。そして、願う仏様と求める人間の心が通じ合うことを「感応道交」と言われました。

仏が願うから、仏に出遇った者は、その縁に心動かされ、南無阿弥陀仏と称えさせられる。私の願いは、仏の願い、そこに気づけた者が感応道交するのだとおっしゃられたのでしょう。

 

親鸞聖人、寺川先生、そして曽我先生、そのお考えをいただくなら、

智慧も慈悲も持ち得ない私を「仏」に成らしめる南無阿弥陀仏を求め、その教えを、法を求める求法・聞法の志は、私を業火の中から救い取ってくださる仏様に出遇えた喜びの証なのだ。といえるでしょう。

 

そう考えると、浄土真宗の聞法とは、私が道を歩んでいく前に、沈みそうになる苦しみ・悩みからの解放への手段なのでしょう。

 

お釈迦様は、『仏説無量寿経巻下』の中で

 

    佛所遊履(ぶっしょゆり)   國邑丘聚(こくおうくじゅ) 靡不蒙化(みふむけ)

    天下和順(てんげわじゅん)  日月淸明(にちがつしょうみょう)

    風雨以時(ふういじ)     災厲不起(さいれいふき)

    國豐民安(こくぶみんあん)  兵戈無用(ひょうがむよう)

    崇德興仁(そうとくこうじん) 務修禮讓(むしゅらいじょう)

 

「佛が歩み行かれるところは、国も町も村も、佛の教えに導かれないところはない。 そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風も程よく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病は起こらない。 国は豊かになり、民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである」

 《沖縄別院屋上にある鐘楼に刻まれる経文・上述の仏語が刻まれている》

仏が歩み行かれるところで人間は、仏の教えに導かれる

つまり聞法・求法するということです。

聞法・求法によって苦しみ・悩みから解放されるから

世の中は平和に治まり、天候も良好、風雨も適度、自然災害はなく、病気も流行らない。国は豊かになり、人間は平穏に暮らし、争いがないから武器も兵隊も必要ない。人間は道徳を大切にし、思いやりの心を持って礼節を重んじ、互いを認め譲り合うのである。

素晴らしい世界ですね。

今から約2500年前のお釈迦様のおことばです。

この一部を切り取られて、よく「兵戈無用」の法語が取り上げられますが、その前後の経文も大切ですね。

素晴らしい世界の前提は仏様への「聞法・求法」でしょう。

 

しかし、その強い願いが失われたのが、私達の今日の世界なのでしょう。

御経に説かれた世界の真逆に私達はいます。

 

世の中・政治は不安定。地球温暖化、異常気象の下、灼熱の夏、雨不足のちゲリラ豪雨、暴風吹き荒れ、地震や津波などの自然災害に悩まされる。新型コロナをはじめ様々な病気の恐怖にさらされ、国は経済的にも精神的にも病み、人間の生活は先行き不透明。自国ファースト・自分ファーストでこれまでの常識を覆し、自分勝手な無礼な振る舞いを周囲に押しつけ、人を信じず、武器や兵力ちらつかせながら争いの世界・競争の世界を息苦しく生きている。

 

ここには、前提である仏様への「聞法・求法」の志が欠けているのです。

人間の、自分の力で何とかしようとし、苦しみ・悩みからの解放の手段を、金銭・地位・領域の獲得にのみ求め続ける私達には、「仏様にあいたい」「聞法・求法したい」という願いは湧き起こらないのです。

苦しみの世界から浮き上がることができなくなってしまいます。

 

私は、智慧も慈悲も持ち得ない身であり、私を「仏」に成らしめる南無阿弥陀仏を求め、その教えを、法を求める求法・聞法の志を持って歩んでいくことが、私を業火の中から救い取ってくださる唯一の方法という位置に立たなければならないのでしょう。

 

仏様に会いたい、仏様に出遇えた、その喜びが仏様の強い願いであり、感応道

交といえるのでしょう。そう考えると、浄土真宗の「聞法」とは、私が道を歩

んでいく前に沈みそうになる苦しみ・悩みからの解放への手段なのでしょう。

同時に仏様から強い願いなのでしょう。

 

寺川先生は、私達が本当に「親鸞聖人にあいたい」と願うのであれば、聖人のおことばを通して聖人にふれることは、とても大切な道であると信じておられます。そして親鸞聖人のことばが、私達の人生の道しるべとなり、世の光となることを願っておられます。

そういう意味では、三帰依文にもありましたように、私は本当にいつも、仏法聞き難しなのかもしれません。しかし、今すでに聞くこの縁が「仏様にあいたい」という人間の強い願いであり、人間を救いたいという仏様の強い願いなのでしょう。

 

この広島で80回目の夏を迎えるにあたり、改めて「仏様にあいたい」とは何か?

自分とはどういう存在なのか、「仏様の教えに出遇う」「聞法・求法する」ことが、この地球上で、この娑婆と呼ばれる世界で私達が道を歩んでいく一歩だと思います。

あらためて、ご法話のご縁に遇い、仏様の願いを聴聞することの大切さを私自身がいただいた今日という仏縁でした。

                                  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 

2025年8月5日広島別院定例法より

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