今日は令和8年8月8日。8並びの日ですね。皆さんにはどんな御縁となったでしょうか?
最近、「仏縁」について少し考えさせられています。
雑阿含経(ゾウ アゴンギョウ)に曰(イハ)く、
「仏 比丘(ビク)に告げたまはく、四種の馬 有り、
一つには鞭影(ベンエイ)を見て、即便(スナハ)ち驚悚(キョウショウ)して、御者(ギョシャ)の意に随ふ。
二つには毛に触るれば、便(スナハ)ち驚悚して、御者の意に随ふ。
三つには肉に触れて、然(シカ)して後、乃(スナハ)ち驚く。
四つには骨に徹して、然して後 方(ハジ)めて覚(オドロ)く
初めの馬は、他の聚落(ジュラク)の無常を聞いて、即ち能(ヨ)く厭(エン)を生ずるが如し。
次の馬は、己(オノ)が聚落の無常を聞いて、即ち能く厭を生ずるが如し。
三の馬は、己が親の無常を聞いて、即ち能く厭を生ずるが如し。
四の馬は、猶(ナホ)己が身の病苦によりて、方めて能く厭を生ずるが如し。」
『雑阿含経』という経典にこう説かれている、
お釈迦様は出家者達に告げられた。「四種の馬がある。
一種目は、鞭(むち)の影を見ただけで驚いて、馬の乗り手の気持ちを察して走り出す馬。
二種目は、鞭で叩かれて皮膚に痛みを感じて、走り出す馬。
三種目は、鞭で叩かれても走らず、肉に鞭が触れて、はじめて痛みを感じて走る馬。
四種目は、鞭が骨に達してから、ようやく痛みを感じ走り出す馬。」と。
お釈迦様は、この世に命を頂き生まれた者は、生老病死の苦しみからは、誰もが決して逃れられないから、その事実に目覚め、諸行無常(しょぎょうむじょう)の理(ことわり)を自覚せよと御経に説かれました。
そして、仏の縁に出遇うことの大切さについて『四馬(しめ)のたとえ』としてお話しされました。
第一の馬は、生老病死(四苦)の【生】を説かれただけで仏の教えに従う者で、世の移ろいゆく真実に目覚める人を表しています。
第二の馬は、四苦の【生】と【老】を説かれて、仏の教えに従う者で、知人友人の訃報に触れて、この世の無常を知る人を表します。
第三の馬は、四苦の【生老】と【病】を説かれて、仏の教えに従う者で、身内との永遠の別れに直面して、
初めて「生有る者は必ず死に帰す」という真実に目覚める人を表してます。
第四の馬は、【生老病死】の全てを説かれて、仏の教えに従う者で、自分自身が生死の境に立たされて、
ようやく人生の本当の苦しみが何であるかを知る人を表しています。
四通りの仏縁との出遇い方が説かれる中、果たして、わたしは仏縁に遇う機会を大切にしているでしょうか?
「今は忙しいからこの度は・・・」とか、「この次こそは・・・」といって、ご先祖や大事な方の仏事を疎かにしたり、
我が家のお内仏(お仏壇)を粗野に扱っていないでしょうか?
大切な方から頂く仏事は、この娑婆の苦しみに生き惑っているワタシが、ワタシの向き合うべき真実のワタシの姿に気付いていく大切な仏縁なのです。でもその大切な仏縁を自らの理由で放棄していては、この世界を安らかに生きていくことは難しいのかもしれませんね。
「四馬のたとえ」は、仏縁に出遇えるタイミングの違いが語られていますが、最終的には全ての人が仏縁に出遇えています。
しかし、自らの都合で、出遇うことすらできない状況に陥っていませんか?
決して「縁無き衆生は度(ど)し難(がた)し」【仏様の縁に遇う縁のない者は、いかにお釈迦様でも救いがたい】身にならぬよう、仏縁を大切に頂き、それぞれのご家庭での仏事やお寺での法座で聞法してまいりましょう。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
合掌

