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2021年6月19日

「法義相続」に思う 4     黒田 進 師

「法義相続」に思う(4)

                              黒田 進

 

 ここに1枚の葩(はなびら)があります。蓮の花びらの形をした葩は、皆さんもおつとめの本や「御文」に、しおりのように用いられているのではないでしょうか。この葩の裏には「平成26年7月6日 開教百年慶讃法要 敬信寺」と印刷されています。このお寺は、北海道の北、オホーツク海岸の紋別市から少し内陸に入ったところの町にあります。このお寺の開基100年を記念する法要の際、お内陣で法中(ほっちゅう)がお経をとなえながら、ご本尊阿弥陀様のまわりを歩き散華(さんげ・葩を高くまき散らすこと)する、その為に用意されたものです。ご縁があってその法要におまいりさせてもらった折、記念に1枚いただいたものです。

 この敬信寺さんが、北海道のその地に建立されて100年になった記念の大法要、法中やお稚児(ちご)さんも大勢で、とてもにぎにぎしい法要でした。聞くところによると、その少し前に開町100年の記念式典があったようです。つまり、このお寺は町と一緒に100年の歩みをしてきたということです。そういうこともあって、法要には町長さんはじめ、商工会の人たちや町民の皆さんが多数参詣され、法要後に町の会館で開かれた懇親会には、町長さんの挨拶などもあり、町あげての法要といった感がしました。今の住職さんで、たしか3代目だったかと思います。開拓100年、開教100年の大法要でありました。

 敬信寺さんの門徒さんは、元々北陸出身と聞きましたのでその北海道での100年の歩みの背景には、北陸の真宗門徒の長い長い法義相続の歴史があるのでしょうね。そのせいでしょうか、3日間の法要をご一緒して、本堂や庫裏、境内での門徒の方々の会話、おつとめの声、立ち居振る舞いに、どこか北陸門徒の香りがしました。私の生まれが、石川県金沢なので、なおさらそのように感じられたのかもしれません。いろんなところに、真宗門徒の原風景といったものを体感したことが、よみがえってくるようです。 

 ところで、この冬は北陸東北地方が豪雪に見舞われ、多数の車が雪中に閉じ込められたり、屋根の雪下ろし作業の事故で多くの方が亡くなったり、怪我をしたことなど報じられていました。

北陸の玄関口といわれる私の住んでいる辺りは、予報の割に雪は少なくてすみました。かつて昭和50年代は、度々の大雪で、町内の門徒総出による本堂の雪下ろしや、くる日もくる日も除雪にかかりはて、雪が魔物に見えたことが思い出されます。喜んだのは子供たちで、境内に大きなかまくらを掘ったり、鐘つき堂に高い坂をつくり、ミニスキーやソリで遊ぶ子供たちの歓声が連日きこえてきたものでした。

 1月の半ば頃でしたか、たまたまテレビのBSを観ていましたら、何年も前の「新日本紀行」の再放送があり、「東北の冬」というテーマで山形や福島、岩手などの人々の日常生活や風景がうつし出されていました。その中でとても印象深い言葉がありました。雪のこんもり降り積もったある山村に暮らす老婦人が、ふともらした「ゆっくり、自然(じねん)にね」と。毎年のように、春までの約半年、雪に閉ざされる村での生活。雪かきをしたり、部屋の中で「からむし織り」(からむしという植物から、糸をつむぎ布に織りあげていく)の手仕事をしたりする、そういう生活の中でふと口からもれ出た言葉でした。東北の山村の日暮らし、長い年月をかけた人々の生活の積み重ねの中から生まれた、いわば民衆の歴史の中から生まれた味わい深い言葉だなぁと、しみじみ心にしみてきた言葉でした。ゆっくりと、自然の移ろいに逆らわず身をまかせ、その中で出来ることをボチボチと確かな一歩一歩をすすめていこう、というような言葉でしょうか。

 皆さんの備後地方にも、そんな味のある言葉、民衆の長い歴史の中からつむぎ出された言葉があるのではないでしょうか。言葉は生き物です。若い人たちの中から、新しい言葉や表現が次々と生まれています。孫たちと同居していると、会話の中にポンポンと聞いたことのない言葉が出てきて、年寄り2人で顔を見合わせています。新しい言葉や表現が、豊かな人間関係、文化を生んでくるのでしょうね。ただその一方で、歴史をくぐって伝えられてきた言葉も大切にしたいものだとも思うのです。そこには先人の歩み、悲喜こもごもの民衆の生活が息づいていると感ずるからです。

 以前お伝えした、九州のある島でお寺に参ることを「道直しに行く」という言葉にもそんなことを感じます。かつて石川県の能登へ行った折、その地方ではお寺参りに行くことを「オレトゲ」というのだと聞きました。はじめ何のことかわかりませんでしたが、「お礼をとげる、お礼を申す」という意味だと教えてくれました。お内仏に参ることもお寺に聴聞にいくのも「オレトゲに」と。お内仏に灯明をともすことを「お礼をともす、お礼をあげる」といういい方もあるそうです。何かほっこりとするいい言葉ですね。そういえば先程のBSテレビで、あるご婦人がお寺に参っている姿が映され、「こうしてゴサンケさせてもらうことが、うれしくて」と話していました。「ご参詣」の意味ですね。お参りすることを丁寧に「ごさんけ」といっていました。

 私の住む湖北地方(琵琶湖の米原以北の辺り)には、畑仕事などしている人にあった時など「おせんどさん」(ご苦労さま、お疲れさん)とか「おきばりやす」(お仕事ご苦労さま)と声をかけます。あるいは、食物など日にちが経って少し匂いするなと、捨てんならん時など「もったいないけど、休んでもらおう」といういい方をします。家壊しの時なども「休んでもらう」といいます。今は、つぶすなどという乱暴ないい方になってはきましたが、残したい大事な言葉だと思っています。また近所に赤ちゃんが生まれた時など「おめでとうさん。お宅さん赤ちゃんもらいはったんやなあ」という挨拶をします。

私は、長浜の今のお寺に入った頃、この言葉をはじめて聞いた時、どこからかもらい子をしたのだと思いました。子どもを生む、あるいはつくるというようないい方は、元々はなかったのですが、最近は少し変わってきているようです。子どもはさずかりもの、命はたまわったもの、という生命に対する畏敬の念が、このような「赤ちゃんをもらった」という言葉を生んだのでしょう。

私は、これまで述べてきましたいくつかの言葉や、「もったいない」「おかげさまで」というような言葉を思うとき、そこに「言葉にまでなった真宗」ということを感ずるのです。長い長い年月をかけて積み重ねられてきた、私たち真宗門徒の先祖たちの歴史。その中でつむぎ出されてきた宝物のような言葉。それを「言葉にまでなった真宗」と呼びたいのです。どんな言葉にも歴史があるのだと思います。漢字1つひとつに、中国古代からの何千年の歴史があるように。歴史の中で無数の言葉が生まれたのでしょう。そして長い年月というふるいにかけられ、今に残っている生きた言葉、それがこれまでとり上げてきた数々の言葉ではないかと思います。日常の何気ない言葉を通して、その言葉の深い意味合い、背景にある先人の生活、そうしたことに気づいていくことも、「法義相続」につながっていくのではないかと思っております。

私は、今までのべてきました「言葉にまでなった真宗」ということと、同時に「風景にまでなった真宗」ということを思っております。そのことについては、次回にお伝えしたいと思っております。

 

長浜教区満立寺前住職

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