我聞如是 わたしは、このようにお聞かせいただきました、、、
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2020年8月30日

「法義相続」に思う 2     黒田 進 師

「法義相続(ほうぎそうぞく)」に思う 2

                              黒田 進 (くろだ すすむ)

 

 私たちのほとんどは、気がついたら真宗門徒であった、あるいは縁あって嫁いだ家がたまたま真宗大谷派の門徒であった、ということではないでしょうか。選びに先立って真宗門徒だった、先祖代々お東門徒であったということですね。

 何年も前になりますが、大阪の難波別院で門徒会の聞法会がありました。その会に参加した時のことです。私のつたないお話が終わったあとの閉会のご挨拶を、門徒会長さんがされました。それは「皆さんの中で、自分で選んで真宗門徒になられた人もあることでしょう。そのことは大変すばらしいことです。でも、ほとんどの人は気がついたら真宗門徒だったのではないでしょうか。そのことは、よくよく考えたらとてもありがたいことなのではないでしょうか」と、このような内容でした。その時の会長さんの落ちついた姿と声が、今も印象深くよみがえってまいります。「よくよく考えたら」の言葉の中に、その方の長年の聞法の歩みを私は感じました。

 「気がついたら真宗門徒であった」ということは、私にまでの長い長い「法義相続」の歴史、真宗門徒の歩みがあったということでしょう。そこで大事なことは、一体どのようなことが相続されてきたのか。それが、私の人生にとって、私自身にとってどのような大切な意味をもっているのか。そのことを一人一人が自身に明らかにすることなのだと思います。聞法するということは、そのような問を明らかにしていく歩みでないでしょうか。

 このことで私には今ひとつ、忘れられない出遇いがあります。本山には修練道場(しゅうれんどうじょう)という研修の場があります。将来、真宗大谷派の僧侶として生きていこう、あるいはお寺の後継者になろうとする人たちが、それぞれ大学や真宗学院、専修学院などで学び、卒業までに前期と後期とそれぞれ1週間、本山の研修道場にこもって共同生活をすることを通して、各人各人が覚悟を深めていき、大谷派の教師という資格を取得する修練の場です。寳田院様のご住職も、何年前になりますか、その修練を受けられ、私もご一緒させてもらったことです。

 私はご縁があって、その修練道場のお仕事を何年かつとめさせて頂いたのですが、ある回の修練でのことでした。修練では、毎夕の勤行(ごんぎょう)のあと2、3人ずつ感話の時間があるのですが、その方は60才を少し過ぎていたでしょうか。東京で高校の先生をされ、定年を過ぎてから、名古屋の同朋大学(どうぼうだいがく)という宗門の学校の別科というコースで、大谷派の教師になる勉強をされている方でした。その方が感話で、以下のようなお話をされたのです。

 自分は、家族を東京に残し、今一人で名古屋に下宿して真宗の勉強を、若い人たちと一緒にしております。出身は福井県の大野で、家は代々真宗門徒です。地元の高校を出てから東京の大学に入り卒業しました。そこで自分は東京の方で教員になろうと思って、両親に相談したところ、大反対されました。お前はこの家を継いでもらわんならんのだ。東京に行くなんてとんでもないことだ、と。でも自分は、どうしても東京に出たくて、両親の反対の声を押しきって家を離れました。家を出る時母は、どうかこの先祖からのお内仏を守ってほしいと、泣きながら私の足にすがりついて引きとめました。でも自分は、その母の声を振りきって東京に出たのです。そして高校の教員を定年になるまでつとめました。

 しかし、つとめている間にも家を離れる時の両親のこと、特に母の言葉が時折よみがえってきたのです。そして、どうしてあれほど両親は自分を引きとめようとしたのか。それほどにさせた真宗って何なのか。親鸞聖人とはどんな人なのか。どんな教えを説かれたのか。そんなことが思われてなりませんでした。定年が過ぎて、いよいよそんな疑問が自分をとらえて離さず、一体真宗の教えとは何か、親鸞聖人はどんな生涯を送ったのか。そのことを明らかにしようと、ついに思いきって名古屋に一人移り、自炊しながら学校に通っているのですと、このような感話でした。あれからおよそ20年もたったでしょうか。その後どうしておられるかなあと、時々思いおこされてまいります。

 この方は、両親の反対を押しきって東京へ出られたころ、何でそんなに反対されているのかわからなかったのでしょう。真宗門徒が何やら、お内仏(お仏壇)にどんな意味があるのやら、あんまり考えもせず、ともかく東京へ出たい、自分の希望を実現したいと、そういう思いが自分をいっぱいにしていたのでしょう。しかし、東京で先生をされ、いろんな辛い目にもあいながら、長い年月の中で次第に両親の姿、その声がよみがえってきたのでしょう。

 私はそこに、ご本人が自覚していないけれど、知らず知らずに幼い頃からの日々の生活を通して、祖父母、両親から、あるいはお寺や神社、故郷の自然や人々、そういう中でお育てを受けてきた、ということがあったのだと思います。だからこそ、東京での生活の中で幼い頃からの様々な思い出がよみがえってきたのであろうと思います。それこそ法義相続の歴史が、祖父母両親の姿、幼いころより手をひかれ、お内仏の前に坐り、手を合わせてきた。そのようなことがよみがえってきて、一体あれは何だったのかと、自分をとらえて離さない問になっていったのであろうと思います。

 この方の人生体験、その中でいだかれた深い問い。よくよく考えてみればそれは、私たちにもどこか共通し、共感するようなものがあるのではないでしょうか。

 若い時に聞いた、長崎のある島のお寺の老僧さんのお話にこういうことがありました。その島では、お寺に行くことを「道直しに行く」というそうです。たとえば、島の住民がどこかで顔を合わせた折「あんたこのごろ道が荒れていないかい。一緒にお寺へ行って道直しにいかないか」というような会話の中で使われるだとおっしゃっていました。とても考えさせられるいい言葉だなあと、感じたことでした。

 お寺に集まって、共におつとめし聞法するということは、道直し(みちなおし)をする、つまり自分の日頃の生き方がこれでいいのか、仏様の前で教えに照らされながら問いかえす、自分の人生を問い直す、そういうわが身をふりかえる場が、お寺のご本尊の前なのですね。お寺に行くことを「道直しに行く」といわれる。そこには、そういう言葉になるまでの、長い真宗門徒の生活、歴史があったのだと思います。言葉にまでなった法義相続の歴史、歩みですね。

 かつて私は若い時、今はなき四国の高松のお寺の住職をしておられたある先生におたずねしたことがあります。「先生にとってナンマンダ仏ということは、どんな意味があるんですか」と。今思うと、とてもぶしつけな質問をしたものですが、その頃私はナンマンダ仏とはどんな意味なのか。自分にとってどんな関係があるのかわからず悩んでいたので、そんな失礼な問いをぶつけたのだと思います。

 そんな私の問いに先生は、即座に「私にとってお念仏は、『お前はそれでいいのか』という仏様の声です。ナンマンダ仏ととなえることを通して、そういうアミダ様の声を聞くのです」と答えられました。それまで長い間モヤモヤと胸につかえていたものが、その先生の一言でストンと腹底におちたような感覚につつまれたのでした。この先生の一言との出遇いによって、私ははじめてナンマンダ仏のこころ、アミダ様のはたらきに少しふれることができたのです。先生との出遇いを、今もありがたく思い出されます。

 真宗門徒にとって、お内仏の前に身をすえる、あるいは在所のお寺に集まって聴聞するということは、日頃の自分を仏様の光に照らされ、仏様の呼び声を聞くということなのですね。「あなたは、そんな生き方をしていていいのですか。他人のことはよく見えているけど、自分のことは見えていますか」と。そのようなアミダ仏の光、声をいただいていく。そういう自分自身を見つめなおす「道直し」の場であったのです。そういう場・そういう時を大切に相続してきたのが、真宗門徒の生活であったのだと思います。そこに「法義相続」の具体的な姿があるのでないでしょうか。

 

長浜教区 満立寺(まんりゅうじ) 前住職・元東本願寺修練道場長

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