我聞如是 わたしは、このようにお聞かせいただきました、、、
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2020年7月19日

長島愛生園交流会に子ども達と参加して

※表題のお話しは、2018.8.20 に常石放課後児童クラブの子ども達と一緒に岡山県の国立ハンセン病療養所・長島愛生園での交流会を訪問・参加した際に、宝田院住職がお話しさせていただいた内容です。当時の原稿をそのまま掲載致します。

 本日の交流会のお話は広島県福山市の三須が勤めさせていただきます。平生はお寺の住職を務めさせていただきながら、保育士として保育園の仕事に関わらせていただいております。今日は、夏休み中ということで、保育園で実施している学童保育の小学生達と一緒に長島愛生園さんに学習の一環として参らせていただきました。午前中は愛生園歴史館で学芸員さんのお話を聞いてハンセン病について学ばせていただきました。

 実は数年前、こちらでお話をさせていただいたことがあります。私自身その時までハンセン病について学ぶ機会はほとんどありませんでした。新聞を読む程度の知識だったのです。昨年、山陽教区の社会問題部門の教化委員としてこちらに足を運ぶ機会が増えたときに、ふと、この交流会を、この愛生園を、このハンセン病という病気から始まった、たくさんの事実を、より多くの人に知ってもらい、語り継いでもらわなければと、強く感じ、今日は広島県から小学生を引率してきた次第であります。

 ハンセン病についてその歴史・詳細について深く触れることはありませんが、少しお話しさせていただくと、ハンセン病は発病すると末梢神経がおかされ、知覚まひ等により手足や顔面が変形する後遺症が残り、病状が進むとのど・鼻・眼その他の露出部位が変形することから、偏見や差別を生む結果となりました。隔離政策について。日本ではハンセン病患者を人が住むところから離れた島や山奥に隔離する施策がとられて参りました。どうしてでしょう?1873年、ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンがらい菌を発見しました。その後の1897年、ベルリンで開かれた第1回「万国癩会議」(国際らい会議)において、ハンセン病はらい菌による感染症で予防には隔離が有効だと確認されると、出席していた専門家からその情報が日本にもたらされました。それまでは遺伝病とか宗教的な概念で「天刑病」「業病」などとして人びとに知られていました。国は感染症ならば放置しておけないとなりました。1899年、欧米諸国との通商航海条約が発効して多くの外国人が日本に来るようになると、家を出て放浪しているハンセン病患者の存在を放置できないとして問題となり、帝国議会でハンセン病対策の議論が始まりました。この頃日本では外国人の宣教師によって療養施設がつくられ、ハンセン病患者の救済をしていただけでした。家族に迷惑がかからないように全国を放浪するハンセン病患者が外国人の目に映ることは、欧米諸国と対等な関係を築きたい日本にとって「体面を汚す存在」として隔離を考えはじめます。しかし、その頃の日本は日清戦争、続いて日露戦争で経済的負担が重く、自宅でいる患者は隔離せず、街中を放浪したり、神社・仏閣に集住している患者のみの隔離をすることにしました。欧米人の目にふれないようにすることを目的に法律を制定して隔離をしたのです。その後日本が戦時体制に向かうなか、国民は兵隊=戦力と位置付けられていましたから、感染症であるハンセン病にかかり手足や顔などに後遺症を有することは、「国威発揚の妨げになる」とされました。とくに第一次世界大戦を契機に広まった優生思想が大きく影響し、ハンセン病患者の撲滅を図ろうと隔離政策をしたのです。この強制隔離政策を継続する「らい予防法」は1996(平成8)年にようやく廃止されました。昔は、天から受けた罰や報いの病と信じられ、遺伝病と誤解されていましたが、ハンセン師の「らい菌」の発見により、非常に感染力の弱い菌で、その発症は江戸時代以前や戦時中の衛生環境が劣悪な場所で栄養失調等体力が低下している場合に感染するケースがあることがわかりました。今日では医薬の発展により療養所で生活されている人は治癒されています。新たな発症報告もほとんどありません。

様々な場面でのハンセン病

 そういう意味ではこのハンセン病の存在を知る機会は、平成も終わろうとしている今の時代では少なくなったのかもしれません。しかし、ハンセン病を患う人は今の時代においても様々なところで描かれているのです。時代劇の中で物乞いをしている人や四国88カ所巡りのお遍路旅をしている患者の方、大河ドラマ等で頭巾を被っている大名(最近では『真田丸』に登場した大谷吉継・劇中で白い頭巾で頭を覆っている)は当時のハンセン病患者であったとされています。

『もののけ姫』より

 子ども達も知っている、ジブリ映画『もののけ姫』に登場するエボシのたたらばで全身包帯に覆われて鉄砲作りをする人たちもハンセン病患者を表しているとされています。宮崎駿監督は今から20数年前、後に『もののけ姫』という映画になる、日本を舞台に時代劇を企画されました。原作はもちろんないわけで、主人公が刀を下げた侍ではないとしたら、どういう形になるか。貴族でもなかったらどういう映画が作れるだろうかと。それで参考にされたのが鎌倉時代の一遍上人の時宗という宗教改革を描いた『一遍上人絵伝』でした。『一遍上人絵伝』には、ありとあらゆる生業が出てきます。例えば、お寺・神社の周りには、乞食やハンセン病の人がいます。その他、得体の知れない、唐傘を差して一本歯の高下駄を履いている男たちとか、不思議な人達がいっぱい出て来ます。時代劇で見てきた世界とは全然違う、本当の民衆の姿が描かれていると思われたそうです。
宮崎監督はなんとかして、この人達が登場する映画を作れないか、と考えました。それから、『一遍上人絵伝』を見て興味を持った、”たたら者”という、朝鮮半島を経由して入ってきた、製鉄をする人々です。中国地方の山の中で、砂鉄と炭を求めて、山から山へ移って行く集団ですが、その人達が作った鉄が色んな人間を経て、里に降りてくる。農具になり、あるいは武器になる。このたたら場も映画に盛り込みたいと思われました。たくさんの思いが混ざりすぎてしまって、映画ストーリーのアイデアが行きづまってしまった宮崎監督は、ノートを持ってウロウロ歩き回っているうちに、宮崎さんの家から15分のところにある「多摩全生園」というハンセン病療養所の前に来たそうです。『一遍上人絵伝』の中にあったハンセン病の人達のことを考えると、そこで踵を返して帰ることは出来ないのではないかと思って、初めて中に足を踏み入れられました。それから何度か訪ねて行くうちに、ハンセン病の事実に大変な衝撃を受けられました。
 何度も資料館へ行くうちに、”おろそかに生きてはいけない”と感じられました。

”おろそかに生きてはいけない”、というのは、今、自分がぶつかっている作品をどういう風に作るかということを、真正面からキチンとやらなければいけない、と思われたのです。
 実際、『もののけ姫』にはハンセン病の人を描かれました。それは”無難な線”ではなくて、当時”業病”と言われたハンセン病を患いながら、それでもちゃんと生きようとした人達のことを、はっきり描かなければいけないと思われたからです。

ここで、宮崎監督へのもののけ姫作品とハンセン病についてのインタビューを紹介します。

-作品の中にハンセン病の患者さんを登場させることに対しての迷いについて、お伺いしたいなと。それも含めて登場させた理由をお答えいただければと思います。

宮崎:主人公(アシタカ)は、村に突然やってきた「タタリ神」っていう、鉛の玉を打ち込まれた化け物から村の娘達を守るために闘うわけですけど、その結果、腕に大変なアザを持つことになった。そのアザは生きていて、コントロール出来ない力と、蝕んでいくものを持っている。非常に非合理なものを抱え込まざるを得ないという運命を主人公に与えたわけです。
それは、ハンセン病と同じなんですよ。ですから、そういう主人公を作ったり、タタラ場の人たちを描きながら、ハンセン病を出さないわけにはいかなくなったんです。その時、本当にためらいました。 でも、彼らに相談はしませんでしたから、映画を観てくれた時にどういう反応があるかっていうのは、本当に恐ろしい覚悟で作りましたので、さっき一緒に並んでいた方々が、映画を観て、とても喜んでくれた時には、本当に肩の荷が降りたような気がしたんです。でも一方で、それで安心していいんだろうかっていう思いもあります。
主人公のアザは完全には消えずに、映画は終わっています。そのアザと共に、主人公の少年は生きていく。

以上が宮崎監督のインタビューのお話です。

 映画の中でエボシ御前は、タタラ場で作業している包帯で巻かれた人々の病気は「業病」である、と表現しています。「業病」には、難病・直りにくい病気という意味も含まれますが、ここではハンセン病=いわゆる癩(らい)病のことを指していると思われます。実際、癩(らい)病の患者は差別の対象であり、社会から排斥される存在であり、特に近代以降にその傾向が顕著になりました。特に、明治時代、ハンセン病患者を隔離する法律が作られ、患者は強制的に隔離施設へ収容されることになったことは、公権力による合法的な差別であり、ハンセン病患者に対するいわれなき偏見が増幅される素地にもなっていると考えられます。そのため、ハンセン病=伝染病ではなく治る病気であることが分かった後も、偏見は長い間色濃く社会に残ってしまいました。

 実際、「らい予防法」は平成8年まで廃止されずにいたため、当時の厚生大臣が謝罪しました。

 東京都東村山市の「多摩全生園」について、スタジオジブリの宮崎駿監督は「『全生園』に行ってごらん。それまでの人生観が変わるから」というくだりがあります。宮崎駿監督がこのようにハンセン病療養所訪問を勧めるということは、宮崎監督がハンセン病をよく理解されようとしていたことがうかがわれます。『もののけ姫』の中でハンセン病を患う集団の長が言った台詞を紹介します。作ったのは宮崎監督ですから、長の台詞は、宮崎監督のハンセン病を取り巻く世の中に対する思いの代弁でしょう。

「あの人は、わしらを人として扱ってくださった わしらの病を恐れず、腐った肉を洗い、布を巻いてくれた 

 生きることは まことに くるしく つらい 世を呪い 人をのろい それでも生きたい」    とあります。

たたらばのエボシ御前は、ハンセン病を患っている方たちを「同じ人間として」受入、居場所や仕事を提供したのです。宮崎監督は全生園に行くことによって「おろそかに生きてはいけない」と感じられました。私達も「生きていくこと」について考えていかなければなりません。そして私達は、様々な社会問題が起こるこの娑婆世界に身を置く者と自覚していかなければなりません。

互いの正義を主張する国と国の戦争から起こった広島・長崎の原爆

天災による阪神淡路大震災とその後も苦しみながら生きている人と人のつながり

東日本大震災という天災と福島第一原発事故という人災

ハンセン病をめぐる人間の行った行動と考え方

その他にもまだまだたくさんの出来事がこの世界にはあります。

 

でも、様々な出来事の根っこは同じだと思います。その状態に置かれながらも、どんな状況に置かれながらも、『生きていかなければならない』ということです。仏教では私達が住むこの世界のことを「娑婆」と言います。娑婆=サハーとは、堪え忍んで生きていくしかない忍土という意味です。様々な問題の中で、堪え忍んで生きている人がいることを、皆さん、知っていってください。忘れないでください。

 お釈迦様が説かれた『仏説無量寿経』の四十八願の第十七願に「咨嗟」ということばがでてきます。この言葉は「ししゃ」と読めば、「讃嘆・ほめたたえる」の意ですが、「しさ」と読めば「なげき・うめき」という意味も持ちます。戦争などのように最初から人災のモノ、福島原発問題やハンセン病など天災といえども最期には人災に結びついてしまう様々な問題が、私達の時代という歴史の中で繰り返されている事実と、決して口や行動に出してはいけない人間の愚かな振る舞いに対して、踏みつけられたからこそ分かる苦しみや嘆きと、声に出したくても出せない呻き(うめき)を私達は聞いていかなければならないと思います。

 相手の気持ちに気付き、苦しみや悲しみに寄り添い、時には喜びを共感して生きていくことの大切さを、過去の出来事から学び、今という時をともに生き、未来へ伝えていって欲しいと、強く願います。今回の学習を通して、差別と偏見のない社会について、あるいは私達に何ができ、なにをするべきか、考えていってほしいと願っています。

                                                    合掌

                           2018.8.20 長島愛生園にて  常石放課後児童クラブ聴講

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