寳田院様では、この度開基以来700年の法灯(ほうとう)継承(けいしょう)法要を計画されていること、以前よりご住職からお聞きしておりました。今回のコロナ禍によって、延期を止むなくされたとの事、皆様の心中をお察しするばかりです。
ただ、ご住職のお気持ちとしては、かえってこの機を、法要のお待ち受けの期間としてとらえたいと。ついては、700年の法灯継承法要とは、どのような意義をもっているのか、そのことをご門徒の皆さんと共に憶念(おくねん)し、受け止めていく為にも「法義相続」というテーマで、何か書いてほしいという、ご依頼をいただきました。
「法義相続」ということは、私たち真宗門徒にとって、とても大切な意味を持っている言葉であると思いますので、私なりに感じていることを少しのべまして、皆様方お一人お一人が、今回の法要の意味を考えていく何かのご参考になれば、大変ありがたいことです。
さて、私たちは、相続といえば、財産相続、家督相続、遺産相続という言葉を、すぐ思いうかべてしまいます。では法義相続ということは、どういう意味の言葉なのでしょう。私は、この言葉はある意味で、真宗独特の言葉ではないかと思っております。真宗では「法(ほう)義(ぎ)相続(そうぞく)・本廟(ほんびょう)護持(ごじ)」という言葉で、おそらく明治の両堂(りょうどう)再建(さいけん)(現在の京都本願寺)以来、宗門(しゅうもん)でよくいわれつづけてきたのであろうと思います。
ちなみに、私のもっている電子辞書には、「法義とは、仏法の教義・教理の意」「相続とは、受けつぎ伝えるの意」とありました。このような堅苦しい表現をとらなくても、平たくいえば、ナンマンダ仏の大切なこころを、わが身に受けとめて、次の世代へと伝えていくこと、といっていいかと思います。しかし、このことが中々容易ならないことであるともいえます。ただ、少なくとも私たちの先輩たちが、法義相続・本廟護持の歩みを何百年もつづけて下さったおかげで、今日私たちがお念仏申す身としてお育てをうけ、ご法要にも遇うことができるのでありましょう。本廟とは、直接には本山本願寺のことですが、広げていえば私たちの在所のお寺ということであります。
私は、この法義相続ということで、ひとつ思ったことがあります。9年前の2011年の春、京都本山で親鸞聖人750回御遠忌(ごえんき)法要がつとまりました。皆さんの中にも、その折りお参りされた方も多いことでしょう。私も門徒の皆さんと一緒にお参りいたしました。
折しも、東日本を襲った大地震、巨大津波で、甚大な被害がありました。そして、今も、これからも長きにわたって放射能汚染の問題を残すであろう福島原子力発電所の事故がありました。こうした大変な状況の中でつとめられた御遠忌でした。その時のテーマが皆さんご承知の「今、いのちがあなたを生きている」でした。
私は、当時のような状況の中で御遠忌をつとめるとは、どのような意味をもつのであろうか、この御遠忌テーマは、どのような意味なんだろうか、そんな問いを抱きつづけておりました。そしてひとつ気がつかされたことがありました。いってみればあたり前のことなのかも知れませんが、宗祖(しゅうそ)の750回忌ということは、単に聖人が亡くなられて750年が過ぎたということではなく、真宗門徒の750年の歩みであったのだ、ということです。
いわば、念仏の教え、ナンマンダ仏の仏法を、日々の生活を通し、また、在所の聞法(もんぽう)道場(どうじょう)での同朋(どうぼう)と共なる聴聞を通して、わが身にいただく生涯を尽くして、それを次の世代へと受け伝えて下さった。次の世代はまた、その先(せん)達(だつ)の願いを受けとめて生きつづけ、それをまた次の世代へとバトンタッチしてきた。このような、私たちの先祖、真宗門徒の先輩たちの750年の歩み、つまり歴史というものに出遇うところの節目の法要が親鸞聖人750回御遠忌法要であったと、私は気づかされ、何か熱いものを感じたことでありました。
「今、いのちがあなたを生きている」というテーマでいえば、一つは、この私のいのちそのものの意味でもありましょう。私のいのちでありながら、私のものというわけにはいかない、私が自由にできるようないのちではない。はからずもたまわったいのち、私の思いやはからいをこえた、いわば大いなる大河のようないのちの一滴を、私のいのちとしていただいて、今ここに存在しているのだという、何かひとつの感動をあらわすようなテーマではないかと思います。
石川県大聖寺(だいしょうじ)に、和田(わだ)稠(しげし)という先生がおられました。90才で亡くなられるまで、全国の有縁の方々に説法をつづけられた先生でしたが、80才をすぎた頃からでしょうか、ご法話のはじめに必ずといっていいほど「不思議のおいのちを頂戴(ちょうだい)して、皆さんにおあいしました」といわれました。若い頃はこの「おいのち」という言葉が、今ひとつ受けとめられませんでした。しかし、年とともに少しずつこの、和田先生が「おいのち」といわれたこころというものが感じられるようになりました。
「お」「御」とは、単なる丁寧にいったということではないのでしょうね。自分のいのちに、先生自身が頭を下げておられるのであろうと思います。不思議のいのちを今こうして生きているのだと。「御」とは、たまわったという意味、他力の意味なのだと思います。日常生活の中でも「ご飯」とか「おかず」「お味噌汁」、あるいは「お天気」「お友達」「お達者で」など、私たちは何気なく「御」の字をいろんなことにつけますが、これは、私の思いをこえてたまわったもの、それを他力という、おかげさまという意味をこめて表現してきたのではないでしょうか。
そして、今一つ、このテーマの「いのち」は、ナンマンダ仏のいのち、真宗門徒のいのちでもあると感じております。私たちに先立って無数の真宗門徒が、750年相続してきた念仏のいのちが、この私の身に生きている。そのような驚き、感動を呼びおこすテーマでもあるのではないかと、私は感じております。
この度、寳田院様で開基700年の法灯継承法要を計画されていることでありますが、驚くべきことであります。正に親鸞聖人のお言葉「遠(おん)慶(きょう)宿縁(しゅくえん)」(はるかなる法義相続の歴史を共に慶(よろこ)ぼうではありませんか)が想起されてまいります。皆様の先祖たち、真宗門徒の先達の方々が、その時代その時代のいろんな苦難をのりこえて、一代一代のご生涯を尽くし、受けつぎ伝えて下さった、そういう法義相続の歴史としての700年なのでありましょう。
であればこそ、その歴史を受けとめて、次の世代へとバトンタッチする大いなる使命、お仕事があるのだといえましょうか。その意味では、寳田院という聞法道場は、いわば法義相続の象徴であるといっていいのでありましょう。
ところでこの寳田院という寺号には、どのようないわれがあるのでしょうか。私は、この寳田という言葉には、とても大切な意味がふくまれているように感じております。仏法という宝物が豊かに実っている田という意味でしょうか。
仏教では、帰依(きえ)三宝(さんぽう)ということを大事にします。本山出版の赤い勤行集のはじめに「三(さん)帰依(きえ)文(もん)」がのっていることは、ご承知のことと思います。三つの宝ものに、共に帰依いたしましょう、という意味です。三宝とは、仏(ぶつ)宝(ほう)・法(ほう)宝(ほう)・僧(そう)宝(ほう)です。仏宝は仏様、法宝とは仏様の法、つまり教えです。そして僧宝は、僧伽(さんが)といって、仏法を共に聴聞し実践する仲間、教団ということです。真宗でいえば、同朋(どうぼう)同行(どうぎょう)ということです。つまり、共に聞法するお友達という意味です。このような意味でいえば、寳田院とは、三宝という宝物が実っているお寺という意味になるのでしょう。
700年前、この地に寳田院という聞法道場を建立された開基住職、そして皆さんの先祖の方々の深い願いが、お寺の名にこめられているといっていいかと思います。法義相続という願いが、お寺の名になっているとも申せましょう。
寳田院という名のもとに、皆さん方の先祖たちは、共に教えを聴聞し、共に生活の中で念仏のいわれを確かめ合いながら。ナンマンダ仏をいただいてこられたのでありましょう。そうした700年の歩み、歴史を讃仰(さんごう)し、改めてその法義相続をわが身にいただきなおす法(ほう)縁(えん)が、今回の法要であろうかと思います。
本当に意義深いことであります。
長浜教区満立(まんりゅう)寺(じ)前住職